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黄色いバラを

 スーヴニール・ド・クロージュ・ペルネ (Souvenir de Claudius Pernet /クロージュ・ペルネの思い出) と命名された黄色いバラが在る。
 1919年,バラ作出家ジョゼフ・ペルネ=デュッシェ(Joseph Pernet-Ducher, 1859-1928) が生み出した品種である。
 この品種はハイブリッドティ系初の黄色バラとして歴史的に重要な品種で,この花の血を引くバラの名花の1つに「ピース (Peace)」がある。 

 なお Ducher の表記は検索結果で多い「デュッシェ」にしたが,「デュシェ」「デュッセ」「ドゥシェ」「ディシュ」などさまざまなカナ書きがある。発音サイト Forvo。でフランス語 ducher を聞いた感じでは「デュシェ」が近いような気がする。

 さてWEBで検索するとこのバラは「ペルネ=デュッシェが戦死した長男クロージュを追悼するために名付けた」という話が出てくる。また「クロージュは父に結婚を反対され,悲しみを抱えて戦争に赴き還らぬ人になった」という記述も見つかる。
 クロージュの恋した相手は「ラ・フランス」を作出したバラ育種の名門家系,ギヨー家の娘であった。つまりバラ育種の世界で両家はライバル関係にあり,ペルネ=デュッシェはギヨー家に好意を持っていなかったらしい。

 このエピソードはかなり昔にWEB上で知ったものの,自サイトに載せるからには書籍の資料を確認したかったため,かなり時間がかかった。この本ではないかとあたりをつけた書籍を図書館で検索して閲覧してもヒットせず,結局先日国会図書館のデジタルコレクションで「引用元」と思われる本,『世界のバラ』(鈴木省三,高陽書院,1956) を発見した。
 その本の133ページ(デジタルコレクションではコマ170)の文章を要約すると「ギイヨーの娘マリーとクロジュが恋仲となるがペルネ=デュッシェが許さず,失意のクロジュは予備士官の地位を捨て志願兵となり戦死,その一週間経ずしてクロジュの弟ジョージも戦死,晩年のペルネ=デュッシェは孤独のままバラ作出に励んだ」となる。これはWEBにある悲恋エピソードのソース候補の一つになるだろう。
(この本ではギヨーがギイヨー,クロージュがクロジュとカナ表記されている。弟のジョージは現在のフランス語的カナ表記ならジョルジュである)

[兄弟の戦死の時期の疑問](ソース:WEB検索)

 しかし「兄の戦死後一週間で弟も戦死した」という点が気になった。
 なぜなら Helpmefind (Rose) のサイトによると

Claudius Pernet (December 12, 1882 Lyon - October 24, 1914, Douai), older son of Joseph-Pernet Ducher, was killed in World War I
Georges Pernet (September 11, 1886 Lyon - June 24, 1915 Vosges), younger son of Joseph Pernet-Ducher, was killed in World War I

 とあり,「1941年10月24日」と「1915年6月24日」は8か月離れている。『世界のバラ』のエピソードと一致しない。 

 そこでフランスの戦死者記録が閲覧できるサイトで検索してみた。このサイトは見た感じ信用に足りそうな気がする。

https://www.memoiredeshommes.sga.defense.gouv.fr/fr/arkotheque/client/mdh/base_morts_pour_la_france_premiere_guerre/index.php

 このサイトによれば Claudius Benoit PERNET は1882年12月13日リヨン3区で出生,1914年10月25日 ドゥエー (Douai) の聖クロチルド病院で「31歳」で死亡している。

Mort pour la France le 25-10-1914 (Douai - Hôpital Ste Clothilde, 59 - Nord, France)

 一方弟のジョルジュ(Georges Joseph PERNET) は1886年9月10日リヨン3区で出生,1915年6月23日にフォントネルで「28歳」で死亡している。

Mort pour la France le 23-06-1915 (Ban-de-Sapt - La Fontenelle, 88 - Vosges,France)

 どちらも Helpmefind(Roses) の記述と微妙に日付が違うのだが,他の戦死者の記録を見渡してもペルネ兄弟と一致する年齢や出身地の人が存在しない。
 ただこのサイトに「25歳」で死亡した Georges PERNET という人の記録があった。彼は1889年2月9日ランベルヴィエ (ヴォージュ県) で出生,1914年10月31日にマノンヴィルで死亡している。
 この人の記録の日付ならば鈴木省三が書いた「兄の死の一週間経ずして弟も死んだ」というのにあてはまりそうだ。当時の戦死者記録は現在のように詳細ではなく,同名の他者と取り違えた可能性もあるかもしれない。

[ギヨー家のマリーとは?](ソース:WEB検索)

https://gw.geneanet.org/lena1712?n=guillot&oc=&p=jean+baptiste+andre

 結論から言えば「ギヨー家の令嬢マリー」に相当するのはジャン・バティスト・アンドレ・ギヨー(息子)の娘マリーしかいない。
 この(息子) というのは彼の父が全く同名のバラ作出家なので,区別するための表記である。フランス語では Jean-Baptiste André(fils) となる。
 根拠にしたフランスの系図サイトはどうもイマイチ信用できない気がするが,とりあえずそれによれば,彼女の正式名は Marie Antoinette Guillot で1866年5月22日生まれ。なんと,「マリー・アントワネット・ギヨー」である。
 日本人的には1793年に処刑されたフランス王妃を連想する名で,イメージがあまり良くないが,フランス人的にはそうでもないらしい。

 ジャン・バティスト・アンドレ・ギヨー(息子)は1850年,23歳でカトリーヌ・ベルトン (17歳)と結婚し,1853年に長男ギュスターブ (Gustave),1855年に次男ピエール (Pierre),1866年に長女マリー・アントワネット (Marie Antoinette) をもうけた。
 ジャン・バティスト・アンドレ・ギヨー(息子)は1873年に「Marie Guillot」(マリー・ギヨー) というバラを発表しているが,これは娘の名をつけたものかもしれない。ただし彼の母親の旧姓名は「ジャンヌ・マリー・ピオレ」(Jeanne Marie Piolle) なので,家族の中に二人いる「マリー」へ向けた愛情表現だったかもしれない。

 さて,マリー・アントワネット・ギヨーは1866年生まれ。
 クロージュ・ペルネは1882年生まれ。
 年の差16歳。
 随分また年上好みな。
 しかも,マリー・アントワネット・ギヨーは1887年にエリー・ジャン・マリー・ ナンボタン (Elie Jean Marie Nambotin) と結婚している。クロージュ5歳の時にマリー・アントワネット21歳は既婚者だったことになる。

 マリー・アントワネット・ギヨーとジャン・マリー・ ナンボタンの結婚後に関しては没年も含めて全て不明。
 しかしクロージュがマリーと結婚を考えたからには,それまでに彼女が夫と死別または離婚している必要があるだろう。
 だとするとジョゼフ・ペルネ=デュッシェは息子のクロージュに「16歳年上の未亡人,または16歳年上の離婚歴のある女性」と結婚させてほしいと懇願されたことになる。

 それは……普通,反対する……だろう。
 フランス人の結婚可能年齢は19世紀当時から男子18歳だったようだが,検索すると「満25歳以下の男子は父母の承諾が必要」という条件もあったらしい。
 なら26歳になった時に結婚すれば良かったのでは?  42歳のマリーと。
 と思ってしまったが,父の後継者としてバラ育成をする人生を選ぶなら,子孫を残せるかどうか際どい42歳の女性と結婚する選択はできなかったのかもしれない。

[ギヨー家の令嬢](ソース:WEB検索)

 ジャン・バティスト・アンドレ・ギヨー(息子)の後継者は次男ピエールだった。このピエールに娘が二人いた。エレーヌ・ギヨーとマルグリット・ギヨーである。
 実は『世界のバラ』を読むまで,クロージュの恋した女性の名が不明だったので,「ギヨー家の令嬢」とは彼女たちのどちらかではないかと思っていた。(『世界のバラ』に「マリー」とはっきり書いてあってその推測が外れてしまった)
 またピエール・ギヨーが作り出したバラの中に, Hélène Guillot (1901年作出) と Marguerite Guillot (1902年作出) があり,彼女たちの出生はそれ以前であろう,ならばクロージュと年齢がそれほど離れていないのでロマンスもあるのかも……などと考えていた。

 しかし検索して見つけたフランスの系図サイトによると,ピエールの娘は Hélène Guillot (1888-1981) ,Marguerite Louise Catherine Guillot (1892-1932) だった。
 エレーヌ はクロージュと6歳差。マルグリット・ルイーズ・カトリーヌは10歳差。
 エレーヌは1913年に25歳で結婚し,1914年7月に娘マドレーヌを生んでいる。

 もし「ギヨー家の令嬢」がエレーヌのことだったなら,エレーヌの結婚と出産に心を抉られたクロージュが1914年に志願兵になって戦死した……というストーリーが作れていい感じではあったのだが……
 また,マルグリットは1922年に30歳で結婚した。戦死したクロージュを忘れられなかったから婚期が遅れてしまった……という話も作り得る。

 だが『世界のバラ』によればクロージュの恋人はマリーだった。
 マリーはクロージュより16歳年上で,クロージュは超熟女好みの人だった……

 どこかに『世界のバラ』以外にこのエピソードを扱った書籍はないものかなぁ。
 鈴木省三はどこでこの「悲恋エピソード」を仕入れたのだろう。
 もしかしたらフランスの人との雑談で聞いた話で,その人の発音が早口で Marguerite が Marie に聞こえた,とか?
 ありえない話ではない……かな?

 戦死した息子を偲ぶ父親が作ったバラの子孫が,Peace (平和) という名の黄色いバラとなった。
 とても美しい物語である。
 これだけで満足して悲恋エピソードは忘れたほうがいいのかもしれない。

[おまけ・バラのページ]

 ピース

 ソレイユ・ドール

 ロサ・フェティダ・ペルシアーナ

 上記のページの画像は古いので,もっと綺麗な画像を探す時に下記の文字列をコピペして検索して下さい。

 ピース バラ ソレイユ・ドール バラ ロサ・フェティダ・ペルシアーナ ペルシャン・イエロー バラ


[記] 2024/7/24


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